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5月8日(水) 天皇退位による代替わり騒動の今こそ「国民主権」を貫くべきだ [天皇]

 10連休中の4月30日に天皇が退位し、翌5月1日に新しい天皇が即位しました。テレビなどには特別番組があふれ、懸念した通りの大騒ぎとなったのは誠に残念です。
 街頭インタビューなどで、「令和をどんな時代にしたいですか」という問いがありました。私はこう答えたいと思います。
 「安倍首相のいない時代にして、世の中をもっとまともなものにしたい」と。

 天皇の代替わりと改元は、天皇制について考える絶好の機会でした。しかし、その政治利用を目論む安倍政権の画策や商売のために利用しようとしたマスコミ各社の思惑などのために、そのチャンスは生かされなかったようです。
 日本が本当の「国民主権」を実現し自由で平等な民主主義社会になるために、天皇制は廃止しなければなりません。それは自由でも平等でもない身分制社会からの遺物であり、時代遅れの制度だからです。
 現行憲法制定の際はこの制度をなくすチャンスでしたが、戦争放棄・戦力不保持を定めた憲法9条とのバーターという形で天皇制を存続させる第1条が定められました。その代わり「象徴」としての地位にとどめられ、「政治的権能」を持たないものとされています。

 そもそも、天皇はじめ皇族は国民の上に立つ特別の人々であり、平等に反する差別的な存在であることは明らかです。それは「差別の制度化」であり、このような格差の存在が憲法で認められていること自体、民主主義にとっての大きな欠陥です。
 また、女性・女系天皇が認められず、剣璽等承継の儀に女性皇族の出席が認められなかったのも問題です。明らかな女性差別であり、男女平等に反します。
 現在の天皇制は法の下での平等にも男女平等にも反する二重の意味での不平等な存在となっています。女性・女系天皇や宮中行事への女性皇族の参加が認められるようになっても、天皇制が持つ本来的な不平等性はなくなりません。

 また、制度の存続が生きている生身の人間に依存しているという点で、象徴天皇制は極めて非人間的な制度でもあります。この制度を維持するために、天皇一家は居住の自由などの法的権利を制限されているだけでなく、自らの人生を自ら選んで決定するという人間としての生き方を制約されています。
 天皇直系の男子として生まれれば、すでにその時点で人生は決まってしまうのです。可哀そうではありませんか。
 象徴天皇制を容認したり擁護したりする人々は、このような人為的な制度を維持するために人としての権利や自由を奪っても良いと主張していることになります。天皇の代替わりに伴って自らの意思とは無関係に皇位継承3位となった少年は、天皇制維持のための人身御供とされたようなものではありませんか。

 このような問題を孕んでいるにも関わらず、国民の多くは象徴天皇制を受け入れ、今回の代替わりと改元を歓迎しているように見えます。それは何故でしょうか。
 もともと日本人は「空気」を読み、進んで「長いものに巻かれる」過剰同調性ともいえる国民性があり、お祭り騒ぎが大好きです。今回も、一種の「お祭り」として受け入れられたのかもしれません。
 それに輪をかけたのが安倍政権による10連休という「プレゼント」であり、それに便乗したマスメディアなどのバカ騒ぎでした。そのために「お祝いムード」一色となって異論が押さえつけられてしまったのです。

 平成天皇はリベラル色が濃く、憲法を守る姿勢を取り続けてきたことは国民にとって幸いでした。同時に、そのために天皇制が持っている本来的な問題点が覆い隠され、象徴天皇制の浸透と定着が図られてきたことは見過ごせません。
 安倍首相に比べれば、前の天皇はずっとまともで信頼できるという点も大きかったでしょう。政府と政治に対する信用と信頼が失われた分、象徴天皇制と平成天皇に対する信用と信頼が高まったということがあったかもしれません。
 そのために、社会的な分断の克服と国民的統合、現行憲法擁護の役割を天皇に果たして欲しいという願望や期待が生じたように見えます。しかし、主権者は国民なのですから、このような願望や期待は筋違いだと言わなければなりません。

 天皇退位による代替わり騒動の今こそ、天皇は象徴にすぎず、主権者は私たち国民だということを強く自覚する必要があります。そのためには、まず、代替わりと改元を冷静に受け止め、政府やマスメディアによって画策されているバカ騒ぎに巻き込まれないように自戒しなければなりません。
 また、安倍政権による代替わりと改元の政治利用を許さないために、バカ騒ぎの背後に隠されている政治的意図をきちんと見抜くことも必要です。「お祝いムード」に流されず、おかしなことはおかしいと言い、声を上げ続けていかなければなりません。
 さらに、主権者は国民であることを忘れず、選挙などの機会に主権者としての権利をきちんと行使することが必要です。7月の参院選はそのための絶好の機会ですから、天皇代替わりを政治利用し支持拡大をもくろんでいる安倍首相にキッパリと「ノー」を突きつけなければなりません。

 天皇や元号が変わっても、私たちの日常の生活には何の変化もありません。しかし、首相が変われば生活のあり方も大きく変わります。
 来たる参院選で、安倍首相を政権の座から追い出せばいいんです。そうすれば「安倍首相のいない時代」を実現でき、「令和」は本当の意味で新しい時代になるのですから。

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4月30日(火) 改元と天皇代替わりのバカ騒ぎによって私たちは何を失おうとしているのか [天皇]

 今日4月30日で今の天皇が退位し、明日5月1日に新しい天皇が即位します。これにともなって「平成」は今日で終わり、明日からは新元号の「令和」が用いられることになります(ただし、私は使いません)。
 「新しい時代の到来」とされていますが、今日と明日の何が変わるのでしょうか。それに伴って、私たちの生活の何が変化するのでしょうか。

 4月1日の新元号「令和」の発表以来、「元号フィーバー」とも言うべき大騒ぎが続きました。最近では天皇と皇后の退位についての報道が目白押しで、NHKニュースは新しい情報を後回しにし「ニュース」番組ではなくなっています。
 今日のテレビは一日中、朝から晩まで退位についての特別番組が組まれており、明日からは新しい天皇と皇后についての報道があふれるにちがいありません。まるで公共の電波が天皇制によってハイジャックされてしまったようです。
 今日の『朝日新聞』まで退位に関連した特別の表紙を付けたりして、まったくウンザリしてしまいます。このような改元と天皇代替わりをめぐる大騒ぎによって、私たちは何を失おうとしているのでしょうか。

 まず第1に、国民と社会の冷静さが失われ「祝賀ムード」に踊らされてしまっています。その最たるものはマスメディアです。
 NHKテレビの特番の表題が「ゆく時代くる時代」とされているように、もう一つの「年末・年始」のような気分を高め「祝賀ムード」に便乗して視聴率を稼いだり売り上げを伸ばしたりしようとする商売根性が、その背景にあります。それが、安倍政権にうまく利用されているということでしょう。
 もともと5月1日に代替わりを設定したのは、この日を祝日にすれば10連休になるからで、それによって国民を喜ばせてお祝いムードを盛り上げようとしたからです。しかし、時事通信の世論調査で「嬉しくない」という意見が4割で「嬉しい」よりも多く、75%の人が「お金がないから自宅で過ごす」と答えているように、安倍首相の狙い通りにはなっていません。「10連休、行くところなし、金もなし」というのが庶民の現実です。

 第2に、象徴天皇制が憲法上の制約の下に置かれているという立憲主義的視点が忘れられていることです。天皇には憲法で規定された国事行為、象徴としてのあり方から生ずる公的行為、天皇個人の生活や祭祀に関する私的行為が区別されますが、このうちの公的行為の範囲が拡大されてきたことに注目する必要があります。
 今の天皇は癒しと励ましによって国民に受け入れられ、国民に寄り添う象徴としてのあり方を模索し、戦没者の慰霊や被災者のお見舞いの旅が評価されています。しかし、それによって憲法で規定された国事行為以外の天皇制の機能と役割が拡大され、象徴天皇制の浸透と定着が図られてきたことに注意しなければなりません。
 今回の新元号制定にあたって安倍首相が事前に新天皇となる皇太子に説明したことも、元号の制定を天皇から切り離した元号法の運用を誤った新天皇の政治利用であり、違憲の疑いがあります。代替わりに関連する行事についても、私的行為である宮中祭祀などの宗教的儀式との兼ね合いや公費の支出など、憲法の政教分離原則に反する疑いがないか厳しく検証されなければなりません。

 第3に、主権者は国民であるという自覚を失い民主主義が損なわれようとしていることです。新元号の発表と退位、新天皇の即位という一連の行事を通じて、日常の生活には何の変化もないのに、あたかも「新しい時代」が始まるかのように感じさせられ、まさに時間と時代が支配されるような状況が生まれました。
 「平成時代」を通じて、戦争犠牲者の慰霊、被災者の救済や癒し、憲法擁護に至るまで天皇に期待しお任せするという「お任せ民主主義」の天皇版が生じたと言えるでしょう。最近では、強まりつつある格差と分断、対立の天皇による緩和や是正、国民統合による民主主義の土台や基盤の維持を評価する「天皇制民主主義」の効用論まで登場しているようです。
 天皇の存在や行為をありがたく神聖であるかのように感じ、圧力もないのに自ら進んで同調し一体化してしまう心のあり方も、知らず知らずのうちに強まっているようです。これらの総体が、かつてあった「天皇制ファシズム」との共通基盤や類似性を生み出していることに注目せざるを得ません。

 このような「時代の空気」に惑わされたり取り込まれたりしないためには、どうすれば良いのでしょうか。まず、改元と代替わりに関わるメデイアのバカ騒ぎを冷静な目で見極め、安易に巻き込まれたりしないように自制することが必要です。
 次に、この騒ぎを利用して一儲けしようとする便乗商法に踊らされないように気を付けることです。まして、詐欺事件などに騙されないよう警戒しなければなりません。
 常に象徴天皇制に対する憲法上の制約を意識し、そこからの逸脱がないかを厳密に判断する批判的視点を忘れないようにすることも必要です。マスメディアも国民主権の視点から行事や報道を検証し、改元と代替わりへの批判論や同調しない人々にも目配りして異論の存在をきちんと報道してもらいたいものです。

 天皇をむやみにありがたがったりあがめたり、リベラル性を過大に評価して期待するような見方を改めなければなりません。主権者は国民であり、平和や民主主義は国民自身の力によって守るという自覚を高めることが、天皇制イデオロギーが復活しつつある今こそ必要なのではないでしょうか。

 なお、5月2日に秋田市で、3日には宇都宮市で講演します。その後、故郷の新潟に帰省しますので、連休明けまでブログをお休みします。
 それ以降も、以下のような講演の予定が入っています。関係者の方やお近くの方に足を運んでいただければ幸いです。

5月2日(木)午後1時半 秋田県児童会館けやきシアター:秋田憲法センター
5月3日(金)午後1時半 宇都宮市東図書館市民センターホール:栃木革新懇
5月8日(水)午後6時 日野生活市民センター:日野革新懇
5月11日(土)午後3時 和歌山市立勤労者総合センター:和歌山革新懇
5月17日(金)午後6時半 国分寺労政会館:三多摩革新懇
5月31日(金)午後2時 国分寺労政会館:三多摩高齢者運動連絡会


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8月14日(日) 天皇の「生前退位」問題をどう考えるか [天皇]

 こんな日がいつか来るのではないかと思っていました。天皇家の人々が、「皇族として生きるのは大変だから何とかしてくれ」と言い出す日が。
 天皇制というのは、統治に関わる制度を個人の犠牲によって維持しようとする非人間的な仕組みです。その無理が高じて「もう年だから、辞めさせてもらいたい」と天皇によってSOSが発出されたのが、今回の「生前退位」問題なのではないでしょうか。

 天皇制について、ずっと昔に私は拙著『概説・現代政治―その動態と理論』(法律文化社、1993年)で、「天皇制の存続が憲法上の様々な規定と矛盾していること」を指摘しながら、以下のように書いています。この本は1993年に出版したもので、第3版で絶版になりました。
 「天皇家の存在は、憲法第19条、20条、22条等で保障されている基本的人権の例外を作り出している。
 天皇制の存在は、『法の下の平等』(憲法第14条)という近代立憲国家の基本原理を犯し、天皇家の人々はその『社会的身分又は門地』によって、『政治的、経済的、又は社会的関係において、差別』されていることになる。天皇家における人権の回復は、もう一つの『人間宣言』として実行されるべき課題だといえよう。」

 今回の「生前退位」についての希望を強くにじませた天皇の「ビデオメッセージ」は、まさにこのような「人間宣言」そのものでした。人間としての心からの叫びを、憲法に抵触しない形で伝えたいという苦肉の策だったのではないでしょうか。
 人間であれば年を取るのは当然ですし、肉体や健康面での問題も出てきます。若いころと同じようにはやれませんから、現役を退いて余生をゆったりと過ごしたいと思うのは自然なことでしょう。
 このような人間としての当たり前のあり方を否定し、心の底からの叫びに耳を貸さないというようなことがあって良いのでしょうか。「天皇だから」ということで、誰にでも認められているリタイア(退位)の権利を無視し続ければ、「法の下の平等」に反する新たな差別を強いることになります。

 できるだけ早い機会に希望を叶えてあげるべきでしょう。摂政を置いたらどうかという意見もありましたが、それでは解決にならないということが、先の「ビデオメッセージ」によって示されています。
 天皇が望んでいることは、一刻も早く「生前退位」を可能にすることです。しかも、現在の憲法はそれを禁じているわけではありません。
 改憲問題に関連させることなく、皇室典範を改正して「生前退位」を可能にすればよいだけのことです。もし、政府・与党がグズグズしていたら、野党が共同して国民の声を聴きながら皇室典範の改正案を作成し、国会に提出するべきでしょう。

 しかし、この問題は「退位」だけにはとどまらない広がりを持っています。国事行為と私的行為の中間にあるグレイゾーンとしての公務のあり方をどう考えるかという問題にも関わるからです。
 公務は憲法に規定されていませんが、象徴としてのあり方から生ずるものとして実行されてきました。その範囲が広がってきたために高齢者には担いきれないという問題が生じています。
 したがって、公務をなくす、あるいは思い切って限定するということも一つの考え方でしょう。しかし、天皇自身はそれを望んでいず、天皇の来訪や出席を喜んだり政治的に利用したりしようとする人々にとって、それは受け入れがたい解決策だということになります。

 また、この問題は女性・女系天皇や女性宮家の創設という問題にも関わってきます。「生前退位」すれば皇太子が天皇となり、その後継をどうするのかという問題が生じ、やがては女性・女系天皇を認める必要が生まれてくる可能性があります。
 だから、日本会議などこれに反対する人々は「生前退位」にも反対するのです。「辞めたい」と言っている天皇に、「死ぬまで続けろ」と無理強いしているようなものです。
 このような無理強いや差別を根本的になくすには、いずれ天皇制を廃止することが必要になります。もともと政治制度の維持を少数の特別な人々に委ねることには無理があり、民主化が進んで少子化社会になってきている今日の日本社会への適合性を失ってきているから、様々な問題が生じているのです。

 時代の趨勢からすれば、このような無理はいずれもっと拡大した形で矛盾を生み出すにちがいありません。それを防ぐためには、最低限、公務を制限し女性差別を撤廃することが必要です。
 そうしたからと言って、君主制という制度が時代遅れで非民主的な制度であるという本質的な問題は解決できません。また、天皇家の人々の人権を制限し、結婚や出産、老化など人間としての属性に抵触する形でなければ制度が維持できないという根本的な矛盾も解消されません。
 今回の天皇が行った「ビデオメッセージ」は「我々も人間なのだ」という「人間宣言」であっただけでなく、「だから、人間扱いして欲しい」という意味での「人間宣言」であり、さらには「いつまで、このような非人間的な制度を維持するつもりなのですか」という問いかけでもあったのではないでしょうか。それにどう答えるかが、我々「主権の存する日本国民の総意」に問われているのです。

 なお、明日から20日まで、故郷の新潟に帰省します。この間、ブログもお休みさせていただきます。
 新潟から帰ってきた後の21日から再開する予定です。引き続きご愛読のほど、よろしくお願いいたします。


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11月2日(土) 山本太郎参院議員の天皇への「直訴」問題 [天皇]

 困ったものです。愚かなことをしたもんだと、呆れてしまいました。
 山本太郎参院議員の天皇への「直訴」問題のことです。秋の園遊会で福島での原発事故の現状を伝える手紙を天皇に手渡したといいますが、渡された天皇も困ってしまったことでしょう。

 福島第1原発事故の被災者のために力になりたいという気持は分かります。やむにやまれぬ焦燥感から出た行動だったのかもしれません。
 しかし、事故の収束や被災者の救済について力を尽くすのは国会であり、議員の役目ではありませんか。それを「政治的権能を持たない」天皇に「直訴」するというのでは、お門違いも甚だしいと言わざるを得ません。
 「現代の田中正造だ」などと弁護するむきもあるようですが、主権者の代表たる国会議員が政治活動を禁止されている天皇に「上訴」するなどということはあってはならないことです。もし、そうであれば、議員よりも天皇が「上」となり、上下が逆になってしまうからです。

 山本議員からすれば、自分の意見をただ伝えたかっただけだということかもしれませんが、園遊会に招待されなければそのようなことはできません。いわば「特権」を利用して、天皇に自分の意見を伝えたということになるでしょう。
 もし、何らかの行動を期待していたのであれば、天皇の政治利用を意図していたということになります。そうでなくても、自分の主張を広めるために皇室の行事や天皇の権威を利用しようとしたのではないかという批判は免れません。
 今回のような行動が認められれば、別の人も同じようなことをするかもしれず、様々な混乱が生ずるでしょう。だから、これまで誰もそのようなことはしませんでしたし、それが常識というものです。

 山本議員の行動は、国会から追い出したいと思っている人々からすれば「飛んで火にいる夏の虫」のようなものでしょう。早速、議員辞職を求める声が上がり、参議院では議員辞職勧告決議案を出す動きもあるようです。
 しかし、議員を辞めるなどという早まった行動をとってはなりません。確かに、山本さんは憲法の規定を良く理解せず、国会議員の地位についての自覚が足りず、おっちょこちょいで軽挙に走りましたが、議員を辞職するほどのことではないと思います。
 もし、辞職したりすれば、せっかく東京で得た反核議員の議席を自民党に明け渡すことになりかねません。そのようなリスクを生み出したという点でも、山本議員の今回の行動を批判せざるを得ないのは誠に残念です。

 一昨日の10月31日から11月1日にかけて、私が代表幹事をしていた(今回の総会で退任)社会・労働関係資料センター連絡協議会(労働資料協)の総会があって、福島大学に行って来ました。大学の内外では、今も放射能の除染作業が行われています。
 原発事故は過去の出来事ではなく、現在進行中なのです。国会は放射能汚染対策や事故収束に向けて全力を挙げるべきであり、山本処分で時間やエネルギーを無駄使いしてはなりません。

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12月17日(木) 天皇の「公的行為」の曖昧さ自体が問題 [天皇]

 中国の習近平国家副主席と天皇との会見が問題になっています。「1ヶ月ルール」を破ってムリに会見を実現したのは、天皇の政治利用ではないのか、というわけです。

 自民党の谷垣総裁や安倍元首相がかみつき、これに民主党の小沢幹事長が恫喝的な反論を行いました。皆さんもご存じのように、マスコミでも様々な論評がなされています。
 そこに、「元首相、自民党の方から要請が首相官邸に届いた」という前原国交相の証言が飛び出し、問題は新しい展開を見せました。というのは、この「元首相」というのは中曽根康弘元首相のことだという憶測が流れているからで、もし、そうだとすれば、自民党は振り上げた拳の落としどころに迷うことになるでしょう。

 問題はどこにあるのでしょうか。まず、確認する必要があるのは、外国要人との会見は天皇の国事行為には含まれていないということです。
 天皇の国事行為は憲法第6条と第7条で定められていて、「外国の大使及び公使を接受すること」などはありますが、要人との会見は含まれていません。この点で、民主党の小沢幹事長の発言は過っています。
 天皇には、この国事行為と純粋な私的行為との間に、「公的行為」という範疇があります。これについて、宮内庁は「公的な性格を持つ行為。国政の権能にわたらないよう、国事行為に準じて内閣の助言と承認を受ける」と定義していて、今回の習近平国家副主席との会見は、この「公的行為」にあたります。
 実は、これら「国事行為」「私的行為」「公的行為」の関係について、私はずっと以前に私見を明らかにしています。拙著『概説・現代政治〔第三版〕』(法律文化社)23~24頁で、私は次のように書いています。

 天皇の行為には、「国事行為」と純然たる「私的行為」のほかに、憲法第1条の「象徴」規定から必然的に生ずる「公的行為」があるというのである。しかし、この「公的行為」の内容は何か、その限界はどこにあるのか、などについては明らかではない。それは、政府の解釈にまかされており、時の政府が必要とする限りで、天皇の「公的行為」の範囲は伸び縮みする。

 というわけで、今回もまた、「時の政府が必要とする限りで」天皇の「公的行為」の範囲が伸び縮みしたわけです。このようなことは許されず、「公的行為」の範囲は可能な限り限定されるべきだと、私は考えています。
 それは、天皇制と天皇の存在自体、政治的な性格を帯びざるを得ず、「公的行為」は、常に、政府による政治利用の可能性を孕んでいるからです。今回の会見も「天皇の政治利用」としての性格がありますが、政府を攻撃する材料としてそれを利用することもまた、別の意味での「天皇の政治利用」だということになるのではないでしょうか。

 なお、この問題に関連して、ブログの「コメント」欄に執拗に記事を貼り付けた方がおられます。私が書いている内容と無関係な記事を勝手に貼り付けたりすることは止めていただきたいものです。