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6月21日(日) 気の毒なのは安倍首相の無理筋に付き合わされている高村さんではないのか [戦争立法]

 「戦争法制」を審議している安保特別委員会などでの審議が続いています。この過程で明らかになってきているのは「戦争法案」の中身についての問題点だけではありません。
 それを提案している政府・自民党側の姿勢ややり方自体も大きな問題を持っていることが明瞭になりつつあります。

 政府の憲法解釈を担当する横畠裕介内閣法制局長官が衆院特別委員会で「腐った味噌汁は一部でも腐っている」という批判に答え、国際法上の集団的自衛権と安倍内閣が主張する「限定的」な集団的自衛権の違いを「フグ」に例えて「毒があるから全部食べたらそれはあたるが、肝を外せば食べられる」と答弁して話題をまきました。これは「憲法の番人」が「権力の番犬」に変わってしまった瞬間であり、このようなたとえ話で説明しようとしたこと自体、「適切ではない」という批判があります。
 しかし、そのたとえが正しいとしても、それが「フグ」であって「腐った味噌汁」ではないということ、「フグ」であっても食べる部分が「肝」ではないということが、どうして分かるのでしょうか。かつて日本の支配層が毒をたらふく国民に食わせ、ほとんど滅亡の淵にまで追いやった前例があるというのに……。
 このようなたとえ話が説得力を持つためには、「戦争法制」が「腐った味噌汁」の一部ではないこと、「フグの肝」とは異なっていることを証明しなければなりません。横畠さんにはそれができるのでしょうか。

 もう1人注目を浴びたのが「戦争法制」についての与党側の責任者である自民党の高村正彦副総裁です。18日の衆院予算委員会で民主党の玉木議員が、憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認は「問題がある」とした高村さんの過去の発言を取り上げ、安全保障関連法案の違憲性を追及しました。
 玉木さんが取り上げたのは、2002年6月6日の衆院憲法調査会における発言で、このとき高村さんは「必要最小限という言葉から、個別的自衛権はいいけど、集団的自衛権はだめだという言葉は必然的に出てこない」と語り、憲法上許される必要最小限度の自衛の措置に集団的自衛権が含まれる場合があると主張しつつも、「現実の問題としてそういう解釈を政府は取ってこなかった。必要だからパッと変えてしまうのは問題がある」と述べ、「集団的自衛権を認めるような形で、国民的議論のもとで憲法改正をしていくのが本筋だ」と語っていました。集団的自衛権の行使容認には憲法改正を行う必要があるとの「正論」を主張していたのです。
 このようなかつての高村さんの主張は、当時の政界にあっては常識的なものでした。自民党をはじめ改憲派の政治家や学者の過去の発言をほじくりだせば、集団的自衛権の行使容認は現行憲法に反しており、それを可能にするためにも改憲が必要だという発言は掃いて捨てるほど出てくるでしょう。

 自衛隊を普通の軍隊として位置づけ、アメリカなどの戦争の手伝いに自衛隊を海外に派遣するための集団的自衛権の行使容認であり、そのための憲法改正論だったからです。現行憲法の下では容易に自衛隊を海外に派遣できず、派遣しても満足な手伝いができないから憲法を変えるべきだと、これらの人々は口を極めて主張してきたのですから……。
 今回の「戦争法制」では、①「新3要件」に基づいて集団的自衛権の行使容認を具体化し「存立危機事態」として認定された場合の海外派兵、②周辺事態法から周辺を外し重要影響事態として認定された場合の海外派兵、③国際社会の平和と安全が危機にさらされる「国際平和共同対処事態」として認定された場合の「国際平和支援法」に基づく海外派兵、そして、④国連平和維持活動(PKO)の一環としての海外派兵と活動内容の拡大という4つのチャンネルによって自衛隊を海外に送り出し、これまで以上に活動範囲と活動内容を拡充できるようにされています。
 「海外で戦争する国」になるためにいかに「隙間のない」対応が工夫されているか、感心してしまいます。しかし、そのために大きな問題が生じました。

 「武力攻撃切迫事態」「存立危機事態」「重要影響事態」「国際平和共同対処事態」という各概念の違いがよく分からなくなってしまったのです。あるいは、あれがダメならこれがあるというように、重ね合わせてどれでも使えるようにしたということなのかもしれません。
 いずれも日本ないし国際社会の安全が危機的な状態になった時ということでしょう。それぞれに対応してどのような「事態」であるかは、時の政権によって恣意的に判断されることになります。
 このような法体系からは、「とにかく自衛隊を海外に出せるようにしたい」という執念のようなものを感じます。それほどアメリカに媚びた政策転換が意図されているということでもあります。

 高村さんのように過去の発言との矛盾が生ずるのは、このような政策転換のために、解釈によって憲法の幅を広げたり縮めたりできるという珍妙な憲法論が主張されるようになったからです。以前は、いかに自民党でも、このようなご都合主義的解釈改憲論は主張できませんでした。
 ところが、安倍政権になって解釈による集団的自衛権の行使容認が強行され、その理由として挙げられたのが安全保障環境の変化です。環境が変われば憲法の解釈も変えてよいだけでなく、そうしなければ無責任だとまで主張されるようになりました。
 そのために、以前の主張との整合性が取れなくなりました。その一例が高坂さんの発言の矛盾だったというわけです。

 そればかりではなく、憲法の規範性が極端に軽視されることになりました。本来であれば、権力行使の基準であり尺度であったはずの憲法が状況変化に応じて広がったり縮んだりする、あるいは法案に適応させられたりするというのですから、これほど為政者にとって便利なものはありません。
 しかし、そうなればもはや憲法は憲法でなくなります。広がったり伸びたり、ときには縮んだりするような物差しは、もはや物差しとしての用をなさないからです。
 このように憲法が伸縮自在となれば、条文を変える必要性もほとんどなくなってしまいます。ご都合主義的な解釈改憲論は、9条改憲はもとより明文改憲そのものの必要性を低下させるというパラドクスに、改憲論者は気が付いているのでしょうか。

 三木派の後継として自民党内でリベラル派を引き継いだはずの高村さんには、こう言いたくなります。「安倍首相の自己満足以外、何の役にも立たない法律のために晩節を汚してしまいましたね、お気の毒様」と……。

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