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7月13日(土) 自由競争の社会なのに、なぜ規制やルールが必要とされるのか [規制緩和]

 昨日のブログで、「規制」をめぐる誤解と謬論の存在について指摘しました。「往々にしてマスコミはこのような謬論に陥りがちですが、『規制』は悪であり『規制緩和』は善であるという前提は成り立ちません」と……。

 ここで、「往々にしてマスコミはこのような謬論に陥りがちですが」と書いたのは、昨日取り上げた『朝日新聞』の対論での記者の質問が頭にあったからです。記者は、一方の山本さんに「規制緩和はまだ足りませんか」と聞き、他方の松原さんに「日本の規制は多すぎませんか」と聞いていました。
 「緩和はまだ足りない」「規制は多すぎないか」という問いの裏には、「もっと緩和して規制を減らすべきだ」という主張が隠されているように見えます。ということは、この質問は「『規制』は悪であり『規制緩和』は善であるという前提」に基づいていたということになります。
 少なくとも、アベノミクスの成長戦略はこのような前提に立ち、それを支持する人々の多くも規制緩和こそが経済成長のカギであると思い込んでいます。だから、「企業や産業に対する経済的な規制は原則なくしていい」と、山本哲三早大教授は主張されるわけです。

 しかし、「原則なくしていい」というのであれば、どうしてこれまで「経済的な規制」が存在したのでしょうか。それは必要だったからこそ、存在したのではないでしょうか。
 資本主義社会は自由競争を掲げているのに、なぜ「経済的な規制」を必要とするのでしょうか。どうして「自由」に反するかのように見える規制やルールが定められたのでしょうか。
 それは、このような規制やルールがなければ、自由な競争が実現しないからです。実は、資本主義社会は自由競争のために特別のルールを必要としていたのです。

 そもそも、公正で自由な競争を実現するために一定のルールが必要だということは、経済活動だけに限りません。ルールによって厳しく競争条件を定めることは、ゲームやスポーツの世界などでは当たり前のことです。
 囲碁や将棋、ゴルフなどで上級者と下級者が対戦するときには必ずハンディをつけ、徒競走ではバラバラなスタートを認めません。そうしなければ、公正で自由な競争にならないからです。
 経済活動も同様です。最も端的な例は独占禁止法と公正取引委員会の存在ですが、それ以外にも公正で自由な競争を保障するための様々なルールがあります。そのようなルールがなければジャングルのような弱肉強食の世界となり、強者にとって一方的に有利になってしまうからです。

 つまり、公正で自由な競争にとって、競争条件を平等にするためのルール・措置はどのような世界であっても不可欠なのです。一定の規制やルールがあって初めて、自由競争の世界が実現するのです。
 このような規制やルールのない完全な自由は、最終的には公正な競争を阻害し、参加者にとって極めて不自由なものになるでしょう。常に強者が勝つような競争は、もはや自由競争とは言えません。
 したがって、規制やルールの設定による競争条件の平等化は、自由を促進することになります。弱い者や条件の不利な者も競争に参加し、競うことができるようになるからです。

 逆に、強い者や条件の有利な者にとっては、このような規制やルールは邪魔になります。それがなくなって、競争条件が不平等になった方が自分にとって都合がよいからです。
 コストの安い農産物や工業製品を生産できる国にとっては、関税がなくなった方が良いに決まっています。多国籍企業や大企業にとっても、中小零細企業を保護したり、消費者の立場に立つ規制やルールのない方が好都合でしょう。
 働かなければ生活できない労働者よりも、それを使う経営者の方が強い立場に立っています。いつでも解雇できたり、金銭で解決したり、長時間働かせたりできるようにした方が、労働者をずっと安くこき使え、日本は「世界で一番企業が活躍しやすい国」になるにちがいありません。

 これが、アベノミクスによる成長戦略の柱として構想されている規制緩和の内容です。もしそうなったら、それでも自由競争の社会だと言えるのでしょうか。
 公正で自由な競争を失った社会は、経済成長に向けての推進力をも失うことになるでしょう。これまでの規制緩和によって生じた貧困化や格差の拡大、消費不況は、そのような害悪の初歩的な現れにすぎなかったのではないでしょうか。

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