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10月16日(火) 京都・彦根の旅 [旅]

 今回もまた、実り多い旅でした。とりわけ、社会政策学会の分科会と共通論題での報告は、私にとって大変参考になりました。

 実は、来年春の社会政策学会の共通論題で、私は「労働政策形成過程の変容」について報告することになっています。渋谷の國學院大學が会場で、2008年5月24日(土)になると思います。
 今度の学会では、この報告に関わる重要なヒントを、いろいろな形で手にすることができました。私の報告に限って言えば、今回の共通論題との接合を図ることが可能だと思います。
 なお、「労働政策」に限らず、日本の政策形成のあり方一般も大きく変容してきました。これについては、すでにご案内しました日本科学者会議の第14回東京科学シンポジウムでの12月1日(土)の記念講演で話すつもりです。

 龍谷大学での学会の合間に、伏見稲荷の千本鳥居を訪問しました。これが2回目ですが、ズラッと並んだ赤い鳥居は、相変わらず迫力があります。
 学会前日の金曜日夜には、滋賀の浜大津まで案内していただき、琵琶湖に上がる色とりどりの噴水を鑑賞することができました。琵琶湖と言えば、日曜の夜には、そのほとりにたたずむ「かんぽの宿彦根」の温泉で疲れをいやしてきました。
 彦根城は3層でこぢんまりとしていますが、400年前そのままの姿が美しく、それが気に入った大隈重信の上奏で取り壊されずに済んだそうです。国の特別史跡で、天守閣は国宝になっています。

 彦根藩の始祖、井伊直政は徳川四天王の1人で、「井伊の赤備え」という真っ赤な鎧甲で知られています。これは、織田・徳川連合軍が甲斐の武田勝頼を倒した後、その旧臣を召し抱えた際、「甲山の猛虎」と恐れられた武田軍の飯富(おぶ)虎昌の赤備え部隊にならったものだと言います。
 つまり、この時、召し抱えられた武田旧臣の一部も、直政に従って甲斐から彦根にやってきたかもしれません。井伊家に、その子孫がいたことは間違いないでしょう。
 先頃、北九州を訪れた際、小倉城にも行きました。この城を造ったのは細川忠興ですが、その後は小笠原忠真の居城となります。
 細川忠興は、元畿内の人で、この後、熊本に移ることはよく知られています。小河原一族はもともとは信濃の出でした。

 このように、戦国時代の後半から江戸時代の初めにかけて、各地の武将は生地を離れ、他国を領土とすることがしばしばありました。広い範囲で、住人が入れ替わったのです。
 これほど大規模な移住がなされたというのは、日本の歴史の中でも珍しいのではないでしょうか。それが各地の風土や文化にどのような影響を与えることになったのか、大変興味深いところです。
 そう言えば、私の古里の上杉家も米沢に移っています。新潟と山形はお隣ですから、近いものですけど……。

 なお、彦根は桜田門外の変で命を落とした大老・井伊直弼の出身地でもあります。井伊は、開国を求めるアメリカと日米修好通商条約を調印しました。
 吉田松陰を斬首刑とした「安政の大獄」などの強権的な弾圧には賛成できませんが、しかし、もしこの時、開国を受け入れずに列強と一戦交えていたら、日本も中国のような運命をたどっていたかもしれません。「尊皇攘夷」を唱えていた勢力による明治新政権が、結局は「攘夷」ではなく「開国」に転じたように、直弼の選択は正しかったと言えるでしょう。
 命を賭して、井伊直弼は歴史を開く決断を行ったということになります。これに比べれば、昨今の政治家は何とひ弱な、と慨嘆せざるを得ません。

 なお、法学館憲法研究所のウェッブサイトの「今週の一言」http://www.jicl.jp/hitokoto/backnumber/20071015_01.htmlに、私の論攷「チャンスを生かし、『活憲の政府』の実現を」が掲載されています。ご笑覧いただければ、幸いです。


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