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2月26日(火) 今、よみがえる「ローマン」(労研饅頭)の香り [大原]

 本日の『毎日新聞』を開いてみて驚きました。「パンの『ローマン』」が紹介されていたからです。
 「白い肌 ほのかな甘み」「蒸して仕上げる伝統の味」という見出しが出ています。

 「そのパンは『ローマン』とか『ローケンパン』と呼ばれていたらしい」と書かれています。これは備前市西片上の「ニブベーカリー」で今も売られているとも……。
 しかも、「ローマンの正式名称は『労研饅頭』」だと言うではありませんか。つまり、「ローマン」とは「労饅」であり、「ローケンパン」というのは、「労研パン」だったのです。
 「労研」というのは正式には労働科学研究所と言い、大原社会問題研究所と同様に大原孫三郎によって設立された姉妹機関で、今も川崎市に存在しています。その初代所長であった暉峻義等は元大原社研の研究員で、「労研饅頭」はこの暉峻が考案した蒸しパンでした。

 これが今も、大原ゆかりの岡山県内で製造販売されているというわけです。労働科学研究所も、当初、倉敷紡績所内にありましたから、岡山県内での販売は驚くことではありません。
 驚いたのは、そこで今も販売されているということです。とはいえ、「労研饅頭」が今も売られていることは以前から知っていました。それも、別の場所で……。
 この記事には何も書かれていませんが、愛媛県松山市に、その名も「労研饅頭」という大きな看板を掲げ店「たけうち」http://home.e-catv.ne.jp/takeuchi/があり、そこでは今も「労研饅頭」が売られています。本店、大街道支店だけでなく、松山市駅前の土産物店でも売られていてビックリしたことがあります。

 松山市の店には2回ほど行ったことがありますが、その「労研饅頭」が「ローマン」という名前で、発売以来80年以上経った今も岡山県内で販売されているというわけです。何と、浪漫ある話ではありませんか。
 私も食べたことがありますが、ほのかな甘みのある素朴な味わいが何とも言えません。「地方発送も可」ということですから、皆さんもぜひ味わってみてください。

 なお、来る3月3日(日)、九条科学者の会・九条の会事務局共催の学習会「憲法9条の新たな危機に抗して」で講演します。全体の企画は、以下のようになっています。
 どなたでもご参加いただけます。多くの方にお集まりいただければ幸いです。

日時:2013 年3 月3 日(日) 13:00 開場 13:30 開会、
場所:明治大学駿河台キャンパス リバティタワー1階1012番教室
資料代 500 円
講演1五十嵐 仁(法政大学大原社会問題研究所教授・政治学):日本政治の右傾化と憲法の危機 
講演2松田 竹男(大阪市立大学特任教授・国際法):ここが危ない!集団的自衛権 
コーディネータ: 小澤 隆一(東京慈恵会医科大学教授・憲法学)
オープニングアクト:ベアテ・シロタ・ゴードンさんを偲んで
(ジャン・ユンカーマン作『映画 日本国憲法』一部上映)


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2月5日(土) 『日本労働年鑑』がウェブ上で公開された [大原]

 今日は、大学の入試監督でした。法政大学の入学試験は今日が初日で、これからしばらくの間続きます。
 毎年、この時期には、研究所の教職員も入試監督として動員されるというわけです。受験生の緊張感が「伝染」するようで、何回経験しても妙な緊張感に襲われて疲れます。

 サラサラと、問題冊子の紙をめくる音。時折、鼻をすする音くらいしか聞こえません。後は、静寂。
 重苦しい緊張した空気が部屋全体に充満しているようです。できれば、受験生全員に合格してもらいたいものですが、そうもいきません。
 せめては、この入試が良い経験だったと振り返ることができるように、プラスの体験になって欲しいものだと思います。このような入試監督も大学院生の時からですから、数えてみたら35年以上もやっていることになります。

 ところで、昨日、研究所が毎年刊行している『日本労働年鑑』をウェブ上で公開しました。こちらhttp://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn-pdf/index.htmlをご覧下さい。
 『日本労働年鑑』は、1920年から刊行されてきましたが、その第1集(大正9年版)から第60集(1990年版)までの画像を公開したわけです。居ながらにして、この間の『日本労働年鑑』を読むことができるようになりました。
 労働運動史や労働史だけでなく、歴史研究者や労働組合運動に関わった方々など、沢山の方にとっての朗報でしょう。とりわけ、隣接領域の研究者にとっては極めて有益であると思われますので、多くの方にご覧になり、利用していただきたいと思います。

 『日本労働年鑑』については、これまでもその一部をウェブ上で公開http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/index.htmlしてきました。こちらの方は、画像ではなくテキスト・ファイルでの公開です。
 1964年刊の別巻「太平洋戦争下の労働者状態」と1965年刊の別巻「太平洋戦争下の労働運動」、第22集(1949年刊)の「戦後特集」から第28集(1956年版)、第50集(1980年版)から第59集(1989年版)までが全文掲載で、第61集(1991年版)から第74集(2004年版)までは特集が掲載されています。私は、第59集(1989年版)から編集責任者として、『日本労働年鑑』の編集に関わってきました。
 振り返ってみれば、もう20年以上も『日本労働年鑑』を編集し続けてきたということになります。苦労の多い仕事ではありましたが、毎年の労働問題や労働運動についての記事を全て読むわけですから、大変、勉強にもなりました。

 大原社会問題研究所は1919年に創立されていますから、一昨年は90周年という節目の年でした。昨年は、『日本労働年鑑』が発刊されてから90年、『日本労働年鑑』第80集を刊行するという区切りの良い年になりました。
 このため、09年度は大原社会問題研究所創立90周年記念事業、10年度は『日本労働年鑑』第80集刊行記念事業と、2年続きで記念イヴェントに取り組むことになりました。私にとっては、所長としての一大事業でした。
 研究所の創立90周年記念事業としては、一昨年に「90周年記念フォーラム」を開催し、これから刊行される『社会労働大事典』の執筆・編集に取り組んできました。また、『日本労働年鑑』第80集刊行記念事業としては、昨年の「三池争議と向坂逸郎」という展示会、映像展示、シンポジウムを開催し、今回、第1集から第60集までの『日本労働年鑑』の画像公開を行いました。

 これらの記念イヴェントは、お陰様で好評を得ることができ、いずれも大成功を収めることができました。区切りの時期にたまたま所長であった私としては、やるべきことをやり尽くし、責任を果たすことができたとホッとしています。
 あとは、これから刊行される『社会労働大事典』(旬報社刊)が沢山売れてくれれば、言うことはありません。これも、すでに1000件を越える予約注文が入っているということで、大いに期待しています。
 これから1週間ほどで見本本が出て、その後、1週間ほどで配本され、店頭に並ぶものと思います。目にとまることがありましたら、是非、手にとってご覧になり、買い求めていただきたいと思います。

 今日、真剣に入試問題に取り組んでいる受験生を目にし、今から40年以上も前、18歳になったばかりの春に都立大学を受験するために直江津から上京してきた時のことを思い出しました。それから長い時間が過ぎ去りましたが、今もなお、大学に身を置いています。
 間もなく還暦を迎えますので、その長い大学人としての人生も残り少なくなってきたように感じる昨今です。競馬で言えば、最後のコーナーを回り、直線コースで追い込みをかける時期にさしかかってきたのかもしれません。

7月8日(木) 『日本労働年鑑』第80集の刊行と記念イヴェントの企画 [大原]

 昨日、『日本労働年鑑』第80集の反省会議がありました。先月の末、『日本労働年鑑』第80集が刊行されたからです。
 現在、書店で販売されています。どなたでも入手可能ですので、手にとってご覧になっていただければ幸いです。

 『日本労働年鑑』は、今から90年前の1920年に発刊されました。第2次世界大戦前から、戦争を挟んでこれだけ長く刊行され続けている『労働年鑑』は、世界広しといえども、この『日本労働年鑑』くらいしかないと思います。
 しかし、この『日本労働年鑑』も、戦争の影響を免れませんでした。90年前に発刊されたのに第80集になっているのは、10年間のブランクがあるからです。
 準戦時体制の下、労働運動が困難になった時期に、この『日本労働年鑑』も刊行できなくなりました。しかし戦後、戦時特集の年鑑を2冊刊行し、復刊することによって戦前からの刊行を引き継ぎました。

 最近の『日本労働年鑑』では、特集を2本組んでいます。第80集では、「ユニオン運動の形成と現状」「構造改革と社会保障改革」です。
 前者は、個人加盟ユニオンの運動について、その歴史を振り返りながら現状を俯瞰したものです。後者は、小泉構造改革の下で破壊された社会保障政策について、その経過と現状をまとめたものです。
 大変、タイムリーなものになっていると思います。これらのテーマについて多くの情報が得られますので、沢山の方に読んでいただきたいものです。

 なお、『日本労働年鑑』が第80集を数えたということで、これを記念するイヴェントを企画しております。その一つは、ウェブ・サイトでの『日本労働年鑑』の公開で、1920年に刊行された第1集から1980年代頃までの『日本労働年鑑』を、大原社会問題研究所のウェブ上で読めるようにする準備をしています。
 もう一つは、三井三池争議から半世紀ということや、この争議で大きな役割を演じた向坂逸郎氏の蔵書や資料を大原社会問題研究所が寄贈を受けて所蔵しているという関係もあり、「三池争議と向坂逸郎」というイヴェントを企画しました。これは、秋に展示会、映像展示、シンポジウムなどを行う予定です。
 10月13日(水)から、法政大学市ヶ谷キャンパスで、これら各種の催しを行います。詳細は、いずれこのブログでも紹介したいと思いますが、楽しみにしていて下さい。

 ということで、今年もまた、無事、『日本労働年鑑』を刊行できて、ホッとしております。このような継続的事業は、中断するのは簡単ですが、引き継いでいくのは大変です。
 とりわけ、このような『年鑑』は、執筆者を始め、沢山の方の協力なしには刊行できません。旬報社を始め、ご協力いただいた方々、お世話になった方々に、この場を借りて厚くお礼申し上げます。

11月4日(水) 大原社会問題研究所が『毎日新聞』の「余録」で言及された [大原]

 旅行中に貯まった新聞に目を通していましたら、嬉しい記事にめぐり合いました。大原社会問題研究所を取り上げたものです。

 それは、『毎日新聞』11月2日(月)の一面下のコラム「余録」です。そこには、大原美術館でのギャラリーコンサートが117回を数えることを紹介しながら、次のように書かれています。

 その美術館をつくった実業家、大原孫三郎の社会貢献は広く知られる。大原社会問題研究所も、業績の一つだ。今は法政大学の研究機関だが、90年前に大阪で生まれた。産業都市の先端を走る大阪は同時にスラム街を抱え、そこには資本主義のひずみの縮図があった。
 研究所はそのただ中で、暮らしに根ざした家計調査をはじめ「格差社会」の研究に真正面から取り組んだ。「げたと靴を片足ずつ履くのは難しい」。理想を追いつつも現実から目をそらさない孫三郎の仕事の軌跡がうかがえる。

 ここから先は、鳩山政権が行った貧困調査を紹介し、貧困問題の解決のために真剣に取り組むことを求める内容になっています。つまり、大原が研究所を作って貧困問題や格差社会の研究に取り組んだように、政治が貧困とまともに向き合うべきだというわけです。
 このような文脈で、大原孫三郎と大原社会問題研究所が言及されていました。「鳩山新政権には生半可でない救済策を着実に実行する責務がある。遅滞すれば、『子孫は先祖の誤りを正すためにある』と明言した泉下の孫三郎に笑われよう」と書かれていますが、まさにその通りでしょう。

 この「余録」を書いたコラム子に、お礼を申し上げたいと思います。このような形で、大原孫三郎と大原社会問題研究所を取り上げていただき、ありがとうございます。
 ただ、この研究所が、先ほど90周年を記念してフォーラムを開催したことにも言及して欲しかったと思います。恐らくご存知なかったのでしょうが、その点がいささか残念です。

 なお、明後日の11月6日(金)、「働き方ネット大阪」の主催で開かれる「第9回つどい」http://hatarakikata.net/で、「働 き 方 を ど う 変 え る か―民主党政権に注文する」という話をさせていただくことになっております。会場はエル大阪で午後6時半開会です。
 どなたでも参加できます。お近くの方に足を運んでいただければ幸いです。

4月1日(火) 大原社会問題研究所所長就任にあたってのごあいさつ [大原]

 今日は4月1日、つまり「エープリルフール」です。「4月馬鹿」ということで、嘘をついてもよい日になっていますが、これから書くことは嘘や冗談ではありません。

 さて、私こと、今日から大原社会問題研究所の所長に就任いたしました。よろしくお願いいたします。
 大原社会問題研究所は法政大学の付置研究所ですが、これは1949年からのことになります。それ以前は、社会・労働問題や社会科学についての民間の研究機関として独立していました。
 創立は1919年ですから、今から89年もの昔になります。現存する社会科学系の民間研究機関としては最も古い歴史を持っています。

 大原社会問題研究所は研究機関ですから研究するのが仕事ですが、古い歴史と活動実績の故に、研究される対象にもなりつつあります。日本に研究所は数多くありますが、「辞典」に載っている研究所は、そう多くないでしょう。
 ちなみに、岩波書店から刊行されている『日本史辞典』(岩波書店、1999年)は、大原社会問題研究所について、次のように書いています。

 日本で最も早く設立された、社会・労働問題に関する民間の研究機関。1919.2.9倉敷紡績社長大原孫三郎によって大阪の石井記念愛染園に付設され、その後天王寺に移転し(現夕陽丘図書館)、37年に東京に移った。戦後の49年に法政大学と合併し、現在は多摩校地にある。高野岩三郎が初代所長を務め、森戸辰男・大内兵衛・櫛田民蔵らの所員が社会科学や労働問題の研究に貢献した。図書17万冊、資料100万点を擁し、「資本論」初版本、エルツバッハー文庫などを所蔵。毎年「日本労働年鑑」(1920-)、月刊で「大原社会問題研究所雑誌」などを刊行している。

 ここに書かれているように、創立者は「日本のロバート・オーエン」と言われている大原孫三郎です。研究所の名前に「大原」とあるのは、このためです。
 「大原」の名前を冠した施設としては、皆さんよくご存知の「大原美術館」があります。これも大原孫三郎が作ったもので、大原社会問題研究所とは兄弟姉妹のような(と、こちらでは勝手にそう思っておりますが)関係にあります。
 大原は、このほかにも色々な施設を作りましたが、それらは大原孫三郎の手を離れた後も存続しています。主なものには、先に挙げた大原美術館や当研究所のほか、労働科学研究所、岡山大学付属生物科学研究所(元大原農業研究所)、倉敷中央病院などがあります。

 前掲の『日本史辞典』には、初代所長だった高野岩三郎はじめ、森戸辰男、大内兵衛、櫛田民蔵らの所員の名前が出ています。これ以外にも、権田保之助、笠信太郎などの所員がいました。
 歴代所長では、久留間鮫蔵、舟橋尚道、大島清、宇佐美誠次郎、二村一夫、嶺学、早川征一郎という方々がおられます。そして、今回、相田利雄前所長から引き継いで、私がその末席に連なることになったというわけです。
 私としては、大変な重責を担うことになり、責任の重さを痛感しています。と同時に、できるだけ普段着の姿で、自分らしさを失わずにいたいとも思っています。

 ということで、所長になってからも、このブログは可能な限り続ける所存です。とりわけ、現在連載中のものについては、一応の区切りがつくまで書き続けます。
 このブログでの記述や発言は、あくまでも私個人のものです。大原社会問題研究所とは関係がないことを、再度お断りしておきたいと思います。
 とはいえ、所長となれば、その発言にはそれなりの責任が伴いますし、無用な誤解を招く恐れがないとも限りません。これまでよりは、多少、歯切れが悪くなるのはやむを得ないことで、それは「立場ゆえ」だと、ご了解願えれば幸いです。

 更新回数が減ったり、内容的には、多少、色合いの違ったものになるかもしれませんが、これまで同様、ご愛読のほど、よろしくお願いいたします。

 ということで、昨日、これを書いてから風呂に入りました。そのときです。とんでもないアクシデントに見舞われたのは……。
 新年度の前日ということもあって、いつもより入念に身体を洗ったまでは良かったのです。石けんの泡をちゃんと流さずに立ち上がった瞬間、ツルッと滑って身体が宙に浮き上がり、浴槽の縁に激突しました。
 左の脇腹をしたたかに打ち付けて、倒れたまま息もできません。「ベキッ」という音がしたような気がしました。しばらくしてようやく起きあがりましたが、左の脇腹に激痛が走ります。

 今日はやっとの思いで出勤し、所員の皆さんに所長就任の挨拶をし、事務会議で簡単な打ち合わせをした後、早退しました。タクシーでかかりつけの整形外科医に駆け込んだのですが、火曜日の午後は手術の日だそうです。外来は受け付けないと張り紙がしてあります。
 そこを何とか、と頼み込んで、馴染みの先生に診ていただきました。レントゲンを撮ったら、左脇腹の肋骨3本にヒビが入っていると仰います。痛いはずです。
 でも、折れてはいないようなので、安心しました。内臓にも、今のところ、異常ないようです。

 新学期が始まった初日からこの調子ですから、情けないかぎりです。2~3日は静養するように、と言われましたから、明日は出勤せず、自宅で休んでいるつもりです。
 座っていても左の脇腹が痛みますので、この程度で、失礼させていただきます。このような事情ですので、ブログの更新も、しばらく中断せざるを得ませんが、ご了承いただければ幸いです。

10月17日(水) 大原孫三郎についての嬉しい発見 [大原]

 昨日は、京都から彦根への旅について書きました。旅といえば、実は昨日、昨年訪問した岡山への旅についての意外な事実を知りました。

 昨年11月、私は岡山大学での講演の帰途、倉敷にある岡山大学付属資源生物科学研究所(旧大原農業研究所)に立ち寄りました。そのとき、付属図書館で膨大な中国の農業関係の書籍を目にしたことは、すでに紹介済みです(残念ながら、今ではもう読めませんので、最後に再録しておきます)。
 ここで私は「1923(大正12)年に2人の研究員を中国に派遣して集めた古代農学関係の図書4884冊」と書きましたが、この書籍を購入したのは誰か、それはどのような事情によるものだったのかが分かりました。偶然、飯塚恭子『祖国を追われて-ILO労働代表松本圭一の生涯』(キリスト新聞社、1989年)を手にしたからです。
 それは、今から80年以上も前のことでした。岡山孤児院、大原孫三郎、ILO労働代表、そして松本圭一が、キータームです。

 1921年1月、ILOの第3回国際労働会議(ILO第3回総会)の労働代表に松本圭一が選ばれるところから、話が始まります。この年の議題は農業問題に関するもので、このとき松本は岡山孤児院の理事をやっており、宮崎県茶臼原分院にあった農場学校の校長でした。
 岡山孤児院を始めたのは石井十次で、「石井のお父さんありがとう」という映画(松平健主演)の主人公にもなったキリスト教の慈善事業家でした。この石井から大きな影響を受け、資金的に孤児院を支えていたのが倉敷紡績社長の大原孫三郎、つまり、私がいる大原社会問題研究所や旧大原農業研究所を作った人です。

 1921年10月にジュネーブで開かれたILO総会に、松本は労働代表として参加します。ここで松本は、労働団体を無視して官選代表として送りまれた自身についての代表資格について疑義を表明し、議事に際しても、ことごとく日本政府や資本家代表とは異なった対応を行います。
 前掲の本の著者である飯塚恭子さんは、このときの様子について、次のように書いています。

 また農業労働争議の総会では、松本は日本政府が事ごとにその特殊事情を口実にして例外規定を求めることに不満をぶつけ、「ワシントン労働時間条約の如きは、特に一条項をもうけながら、それさえも実行の意志がなく、議会に対し立法の手段を執らず枢密院が握りつぶして、労働者はその利益を受けず、依然として不良な労働条件の下に苦しみつつある」と暴露した(113~114頁)。

 ここで、「ワシントン労働時間条約」とあるのは、ILOの労働時間に関する第一号条約のことです。日本政府は例外規定を盛り込ませながら、結局、批准しなかったばかりか、戦後になっても今日まで批准していません。
 それはともかく、ILO総会での日本政府の命に従わなかった松本の発言と態度は日本国内で非難の的となり、「非国民」「逆賊」扱いされました。こうして、松本は農場学校の校長としての職も失います。
 途方に暮れた松本を助けたのが、大原孫三郎でした。大原は、松本を大原奨農会(大原農業研究所)に客員として招いたのです。

 1923年秋、松本は大原奨農会が経営していた農業図書館の書籍購入のために中国へ派遣されます。同行したのは、大原農業研究所員の西門義一でした。
 2人の持参した金額は6千円で、「当時の総理大臣の給料の半年分に相当した大金」(129頁)だったそうです。資源・生物化学研究所付属図書館で私が目にしたのは、このとき購入された農学や本草学の漢籍だったのです。
 その後中国は戦火に見舞われ、多くの貴重な書籍が失われています。ここにあるもので、中国にないもの存在するかもしれません。古い中国農業を研究する人々にとっては、まさに宝庫だと言えるでしょう。

 松本は、ILO労働代表としてヨーロッパを訪れたとき、中国に農業関係図書を購入しに行ったとき、ブラジル渡航の前の南米訪問と3回旅をしています。いずれも、資金を出したのは大原孫三郎でした。
 その見返りは、書籍の購入以外、何もありません。大原にとっては特に何の利益もない資金を、松本という人物を見込んでポンと出したのです。
 大原孫三郎という人物の大きさを彷彿とさせる話ではありませんか。このような経営者は、今の日本にいるのでしょうか。

 戦前のあの時代に、国際会議で日本の労働者のために堂々と論陣を張った気骨ある人物がいたこと、「非国民」や「国賊」などという謗りをものともせず、それを支えたのが大原孫三郎であったこと。このどちらの事実も、私にとっては、大変、嬉しい発見でした。

 なお、2006年11月6日付の「五十嵐仁の転成仁語」の該当する箇所を、下に再録しておきましょう。

 岡山は、私にとってはゆかりのある場所です。勤め先の大原社会問題研究所の創立者である大原孫三郎の活躍した地ですから……。
 大原美術館や倉敷中央病院、アイビースクエアーなど、大原ゆかりの場所もあります。大原家を中心にした「美観地区」は、今や観光名所となっています。
 その近くには、大原社研よりも5年早く、大原農業研究所が設立されました。現在では、岡山大学と合併して、資源生物科学研究所になっています。

 以前から機会があったら訪問したいと思っていましたが、今回、その願いが叶いました。土曜日は休みだそうですが、山口先生にお願いしたところ、元所長である青山先生を紹介していただき、研究所を案内していただきました。
 行ってみてビックリしたのは、その広さと大きさです。建物が何棟もあり、農場や温室まであります。
 それもそうでしょう。専任の研究員や職員があわせて52人で、臨時職員は12人です。在籍している大学院生も51人になるそうです。

 これだけの広さの農業研究所を、90年以上も前に作った大原孫三郎の構想力に脱帽です。研究所はバイオなど最先端を進んでいますが、「史料館」には古い農業関係の研究書も沢山残されています。
 生物学者として著名な元ライプチッヒ大学教授W・Pfeffer(ペッファー)博士の旧蔵書1万1730冊を納めた文庫、1923(大正12)年に2人の研究員を中国に派遣して集めた古代農学関係の図書4884冊、近世や明治時代の和装本を収蔵する農事文庫782点(2576冊)などがあります。1階の展示ケースには、進化論で有名なダーウィンからペッファーに献呈されたサイン入りの本『植物の運動』もありました。
 外国に行かずとも、ここに来れば見ることができるという農業関係の本も多いのではないでしょうか。特に、革命で多くの古書が失われた中国の農事関係図書は、大変、貴重なように思われます。

 岡山への帰途、倉敷中央病院の周りを回っていただきました。車窓から見る病院は、外見からでもよく分かるほど立派なものでした。
 大原を扱ったテレビ番組で二村元所長が指摘されていたように、大原孫三郎の始めた事業は、大原美術館、倉敷中央病院、資源生物科学研究所、労働科学研究所、そして我が大原社会問題研究所というように、今もなお、時代の要請に応えて立派にその役割を果たしています。
 しかもそれは、倉敷紡績などの企業のためではなく、自らの信念に基づく個人的な「道楽」のようなものでした。それは、戦前より以上に戦後的な状況とその時代の要請にマッチしたもので、その意味では20年以上も先を見通したものだったといえます。

 「ワシの目は10年先が見える」というのが、大原孫三郎の口癖だったといいます。城山三郎はこの言葉をとって、大原孫三郎の生涯を描いた書物に『わしの眼は十年先が見える』(飛鳥新社、1994年)という表題を付けました。
 しかし、実際には、大原の目は10年はおろか、90年以上先の今日まで見据えていたのではないでしょうか。その大原の意に反し、大原社会問題研究所の活動の縮小を強いるかのごとき「改革」を強要する法政大学理事会の愚かさを何といったらよいのでしょうか。

 大原のこの大切な遺産を守り抜かなければならない。大原孫三郎のもう一つの遺産である資源生物科学研究所の入り口に立つシュロの木を見上げながら、そう心に誓った次第です。