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8月14日(日) 天皇の「生前退位」問題をどう考えるか [天皇]

 こんな日がいつか来るのではないかと思っていました。天皇家の人々が、「皇族として生きるのは大変だから何とかしてくれ」と言い出す日が。
 天皇制というのは、統治に関わる制度を個人の犠牲によって維持しようとする非人間的な仕組みです。その無理が高じて「もう年だから、辞めさせてもらいたい」と天皇によってSOSが発出されたのが、今回の「生前退位」問題なのではないでしょうか。

 天皇制について、ずっと昔に私は拙著『概説・現代政治―その動態と理論』(法律文化社、1993年)で、「天皇制の存続が憲法上の様々な規定と矛盾していること」を指摘しながら、以下のように書いています。この本は1993年に出版したもので、第3版で絶版になりました。
 「天皇家の存在は、憲法第19条、20条、22条等で保障されている基本的人権の例外を作り出している。
 天皇制の存在は、『法の下の平等』(憲法第14条)という近代立憲国家の基本原理を犯し、天皇家の人々はその『社会的身分又は門地』によって、『政治的、経済的、又は社会的関係において、差別』されていることになる。天皇家における人権の回復は、もう一つの『人間宣言』として実行されるべき課題だといえよう。」

 今回の「生前退位」についての希望を強くにじませた天皇の「ビデオメッセージ」は、まさにこのような「人間宣言」そのものでした。人間としての心からの叫びを、憲法に抵触しない形で伝えたいという苦肉の策だったのではないでしょうか。
 人間であれば年を取るのは当然ですし、肉体や健康面での問題も出てきます。若いころと同じようにはやれませんから、現役を退いて余生をゆったりと過ごしたいと思うのは自然なことでしょう。
 このような人間としての当たり前のあり方を否定し、心の底からの叫びに耳を貸さないというようなことがあって良いのでしょうか。「天皇だから」ということで、誰にでも認められているリタイア(退位)の権利を無視し続ければ、「法の下の平等」に反する新たな差別を強いることになります。

 できるだけ早い機会に希望を叶えてあげるべきでしょう。摂政を置いたらどうかという意見もありましたが、それでは解決にならないということが、先の「ビデオメッセージ」によって示されています。
 天皇が望んでいることは、一刻も早く「生前退位」を可能にすることです。しかも、現在の憲法はそれを禁じているわけではありません。
 改憲問題に関連させることなく、皇室典範を改正して「生前退位」を可能にすればよいだけのことです。もし、政府・与党がグズグズしていたら、野党が共同して国民の声を聴きながら皇室典範の改正案を作成し、国会に提出するべきでしょう。

 しかし、この問題は「退位」だけにはとどまらない広がりを持っています。国事行為と私的行為の中間にあるグレイゾーンとしての公務のあり方をどう考えるかという問題にも関わるからです。
 公務は憲法に規定されていませんが、象徴としてのあり方から生ずるものとして実行されてきました。その範囲が広がってきたために高齢者には担いきれないという問題が生じています。
 したがって、公務をなくす、あるいは思い切って限定するということも一つの考え方でしょう。しかし、天皇自身はそれを望んでいず、天皇の来訪や出席を喜んだり政治的に利用したりしようとする人々にとって、それは受け入れがたい解決策だということになります。

 また、この問題は女性・女系天皇や女性宮家の創設という問題にも関わってきます。「生前退位」すれば皇太子が天皇となり、その後継をどうするのかという問題が生じ、やがては女性・女系天皇を認める必要が生まれてくる可能性があります。
 だから、日本会議などこれに反対する人々は「生前退位」にも反対するのです。「辞めたい」と言っている天皇に、「死ぬまで続けろ」と無理強いしているようなものです。
 このような無理強いや差別を根本的になくすには、いずれ天皇制を廃止することが必要になります。もともと政治制度の維持を少数の特別な人々に委ねることには無理があり、民主化が進んで少子化社会になってきている今日の日本社会への適合性を失ってきているから、様々な問題が生じているのです。

 時代の趨勢からすれば、このような無理はいずれもっと拡大した形で矛盾を生み出すにちがいありません。それを防ぐためには、最低限、公務を制限し女性差別を撤廃することが必要です。
 そうしたからと言って、君主制という制度が時代遅れで非民主的な制度であるという本質的な問題は解決できません。また、天皇家の人々の人権を制限し、結婚や出産、老化など人間としての属性に抵触する形でなければ制度が維持できないという根本的な矛盾も解消されません。
 今回の天皇が行った「ビデオメッセージ」は「我々も人間なのだ」という「人間宣言」であっただけでなく、「だから、人間扱いして欲しい」という意味での「人間宣言」であり、さらには「いつまで、このような非人間的な制度を維持するつもりなのですか」という問いかけでもあったのではないでしょうか。それにどう答えるかが、我々「主権の存する日本国民の総意」に問われているのです。

 なお、明日から20日まで、故郷の新潟帰省します。この間、ブログもお休みさせていただきます。
 新潟から帰ってきた後の21日から再開する予定です。引き続きご愛読のほど、よろしくお願いいたします。


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11月2日(土) 山本太郎参院議員の天皇への「直訴」問題 [天皇]

 困ったものです。愚かなことをしたもんだと、呆れてしまいました。
 山本太郎参院議員の天皇への「直訴」問題のことです。秋の園遊会で福島での原発事故の現状を伝える手紙を天皇に手渡したといいますが、渡された天皇も困ってしまったことでしょう。

 福島第1原発事故の被災者のために力になりたいという気持は分かります。やむにやまれぬ焦燥感から出た行動だったのかもしれません。
 しかし、事故の収束や被災者の救済について力を尽くすのは国会であり、議員の役目ではありませんか。それを「政治的権能を持たない」天皇に「直訴」するというのでは、お門違いも甚だしいと言わざるを得ません。
 「現代の田中正造だ」などと弁護するむきもあるようですが、主権者の代表たる国会議員が政治活動を禁止されている天皇に「上訴」するなどということはあってはならないことです。もし、そうであれば、議員よりも天皇が「上」となり、上下が逆になってしまうからです。

 山本議員からすれば、自分の意見をただ伝えたかっただけだということかもしれませんが、園遊会に招待されなければそのようなことはできません。いわば「特権」を利用して、天皇に自分の意見を伝えたということになるでしょう。
 もし、何らかの行動を期待していたのであれば、天皇の政治利用を意図していたということになります。そうでなくても、自分の主張を広めるために皇室の行事や天皇の権威を利用しようとしたのではないかという批判は免れません。
 今回のような行動が認められれば、別の人も同じようなことをするかもしれず、様々な混乱が生ずるでしょう。だから、これまで誰もそのようなことはしませんでしたし、それが常識というものです。

 山本議員の行動は、国会から追い出したいと思っている人々からすれば「飛んで火にいる夏の虫」のようなものでしょう。早速、議員辞職を求める声が上がり、参議院では議員辞職勧告決議案を出す動きもあるようです。
 しかし、議員を辞めるなどという早まった行動をとってはなりません。確かに、山本さんは憲法の規定を良く理解せず、国会議員の地位についての自覚が足りず、おっちょこちょいで軽挙に走りましたが、議員を辞職するほどのことではないと思います。
 もし、辞職したりすれば、せっかく東京で得た反核議員の議席を自民党に明け渡すことになりかねません。そのようなリスクを生み出したという点でも、山本議員の今回の行動を批判せざるを得ないのは誠に残念です。

 一昨日の10月31日から11月1日にかけて、私が代表幹事をしていた(今回の総会で退任)社会・労働関係資料センター連絡協議会(労働資料協)の総会があって、福島大学に行って来ました。大学の内外では、今も放射能の除染作業が行われています。
 原発事故は過去の出来事ではなく、現在進行中なのです。国会は放射能汚染対策や事故収束に向けて全力を挙げるべきであり、山本処分で時間やエネルギーを無駄使いしてはなりません。

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12月17日(木) 天皇の「公的行為」の曖昧さ自体が問題 [天皇]

 中国の習近平国家副主席と天皇との会見が問題になっています。「1ヶ月ルール」を破ってムリに会見を実現したのは、天皇の政治利用ではないのか、というわけです。

 自民党の谷垣総裁や安倍元首相がかみつき、これに民主党の小沢幹事長が恫喝的な反論を行いました。皆さんもご存じのように、マスコミでも様々な論評がなされています。
 そこに、「元首相、自民党の方から要請が首相官邸に届いた」という前原国交相の証言が飛び出し、問題は新しい展開を見せました。というのは、この「元首相」というのは中曽根康弘元首相のことだという憶測が流れているからで、もし、そうだとすれば、自民党は振り上げた拳の落としどころに迷うことになるでしょう。

 問題はどこにあるのでしょうか。まず、確認する必要があるのは、外国要人との会見は天皇の国事行為には含まれていないということです。
 天皇の国事行為は憲法第6条と第7条で定められていて、「外国の大使及び公使を接受すること」などはありますが、要人との会見は含まれていません。この点で、民主党の小沢幹事長の発言は過っています。
 天皇には、この国事行為と純粋な私的行為との間に、「公的行為」という範疇があります。これについて、宮内庁は「公的な性格を持つ行為。国政の権能にわたらないよう、国事行為に準じて内閣の助言と承認を受ける」と定義していて、今回の習近平国家副主席との会見は、この「公的行為」にあたります。
 実は、これら「国事行為」「私的行為」「公的行為」の関係について、私はずっと以前に私見を明らかにしています。拙著『概説・現代政治〔第三版〕』(法律文化社)23~24頁で、私は次のように書いています。

 天皇の行為には、「国事行為」と純然たる「私的行為」のほかに、憲法第1条の「象徴」規定から必然的に生ずる「公的行為」があるというのである。しかし、この「公的行為」の内容は何か、その限界はどこにあるのか、などについては明らかではない。それは、政府の解釈にまかされており、時の政府が必要とする限りで、天皇の「公的行為」の範囲は伸び縮みする。

 というわけで、今回もまた、「時の政府が必要とする限りで」天皇の「公的行為」の範囲が伸び縮みしたわけです。このようなことは許されず、「公的行為」の範囲は可能な限り限定されるべきだと、私は考えています。
 それは、天皇制と天皇の存在自体、政治的な性格を帯びざるを得ず、「公的行為」は、常に、政府による政治利用の可能性を孕んでいるからです。今回の会見も「天皇の政治利用」としての性格がありますが、政府を攻撃する材料としてそれを利用することもまた、別の意味での「天皇の政治利用」だということになるのではないでしょうか。

 なお、この問題に関連して、ブログの「コメント」欄に執拗に記事を貼り付けた方がおられます。私が書いている内容と無関係な記事を勝手に貼り付けたりすることは止めていただきたいものです。